どうかしていた。 | ABYSS 〜 アビス 〜

どうかしていた。

どうかしていた。のアイキャッチ

少しよろしいかな。

誰にでも「あの時の自分はどうかしていた」と思わざるをえない記憶があるだろう。それを厨二だとか黒歴史だとか言っているけれど、本当のところ、それは自分の礎になっている。「どうかしていない自分」を目指すための石段の一つとなっているのだ。

あの頃の僕は確かにおかしかった。

まだ僕が静岡に住んでいたころだった。そこは歩いて海岸に行けるような距離にあるアパートで、どこかくたびれたTシャツのような雰囲気をたたえる街だった。妻はその街が嫌いだったし、僕も別に好きではなかった。

面白いお店もなければ、交通に便利というわけではない。そのくせ通過するだけの街だったから、大通りには通過するだけの車が多くいきかい、朝の渋滞がひどかった。ここに永住することはないだろう、スカスカの押し入れのような寂しさが僕と街の間にはあった。

住み始めて半年くらい経ったころだろうか。既にエンジニアとして無名を這わせていた僕は、隣町の職場まで毎日通っていた。仕事は、そうだな、なんて表現したらいいのか難しいけれど、全体的に「ニッチモサッチモ」だった。ニッチモとサッチモが毎日顔を突き合わせて、インディアンポーカーをやっているような、そんなニッチモサッチモだった。それなりに仕事は楽しかったニッチモ、僕は疲弊していたのかもしれサッチモ。

そして僕は凶行に走る。

それは休日だった。

その日、僕は布団をはねのけて起きた。しかし周囲は朝ではない。僕は長い昼寝をしていたのだ。もう外は暮れなずむ夕焼け、窓からは赤い空が見えた。僕は何やら知らないが、冷や汗をかくような焦りの中にいた。卒論提出期限の前日のような強烈な焦りだった。僕は卒論を提出したことがないので、それがどういうものかは実のところ分からないけど、たぶんそういう感じだろうというのが賢人諸君に伝われば僥倖である。

僕は何かを早急に達成しなければならなかった。そんな強い強迫観念が僕の心の中を満たして、たぷたぷと揺れて溢れてしまいそうだった。でも何をすればいいのか皆目見当がつかない。今思えば当然だ。何もしなくていいのだから。何ていうか病的である。

じょじょに帳が降りて、部屋が暗くなっていくのが分かる。僕は何かをせねば、と動物園の熊みたいに部屋をうろうろした。強烈な焦燥感は乾きとなって、僕を何かへ駆り立てる。でも何かは分からない。水を飲んだりもしたがだめだった。無為。僕は無為の中にいると思った。

一日の終わりを無力感とともに感じながら、しばらく僕は考えた。そこで僕は思い至ったのである。そうだ、僕は今こそ、正しいことをしよう。僕の好きな言葉を実行しよう。思い出したのは神学者ルターの言葉である。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」人間の営みにおける、一つの真理を表していると僕は思う。

リンゴを植えよう!

早急に!

この時ルターが存命であれば、ルターパンチが飛んできたと思う。さしものルターも頭を抱える精神の混乱がそこにはあった。混乱というかシンプルに疾患だったのかもしれぬ。それでも僕は早急に対応すべく、手早く支度を済ませると外へ出た。リンゴの種がどこに売っているのか知るべくもないけれど、とりあえずスーパーであろうと思った。人類よ、ご存知か。リンゴの種はリンゴの中に入っているのだ。

僕は団子どっこいしょよろしく、リンゴどっこいしょとばかり、スーパーへ急いだ。急ぐ必要がある。日が暮れてしまうのだ。スーパーに辿り着いた僕は軽く緊張した面持ちで入り口をくぐった。リンゴどっこいしょー。

果たしてリンゴがそのスーパーにあったのかどうかを僕は覚えていない。スーパーに入った時、目に入ったのが家庭菜園の小さなコーナーだったのだ。僕はハッとした。リンゴの種は一つの果実にいくつ入っているのだろう? あれが一つの種なのか、それとも中に分割されて入っていて、4つくらいにはなるのか、僕にはリンゴの事情は知らないけれど、それほど多く入っているとは思えない。僕の崇高な目的のためには、種は多ければ多い方がいいのではないだろうか。僕はそのコーナーに置いてあった、野菜の種をつぶさに確認した。
 
 
 
青ネギだな――。
 
 
 
触ってみれば青ネギの種は小さく、ゴマのようだ。これなら量は確保出来そうである。僕は自分の機転に満足し、青ネギの種袋を一つ握りしめレジへ向かった。急がねばならぬ。事態は一刻を争うのだから。日は落ち、陽光がその力を失おうとしていた。一日が終わる。

ところがスーパーの外へ出た僕は、新たな難問に頭を悩ませてしまった。このネギ、どこに埋めればいいんだ? そもそもネギの育て方を僕は知らない。プランターとかに埋めればいいのだろうか? いや、そんなことをしている猶予は許されていない。

途方に暮れた僕は無力感を握りしめていた。ネギ一つ満足に植えることができないのだ。どうすればいいのか分からなかった。教えてくれ、ルター。人はこういう時、どのようにして運命に立ち向かうべきなのか。
 
 
 
その時、海の匂いがした。
 
 
 
僕は磁石で引っ張られるみたいに駆け出した。海だ。海があるぞ。あそこには全ての愛憎を黙って飲み込んでくれる海があるぞ。僕は堤防を駆け上がった。潮騒が薄闇を通して聞こえる。のっぺりとした堤防を登りきると、そこには水平線が広がっていた。偉大なる太母が僕を抱きしめようとしてくれている。

僕は砂浜に躍り出た。そして青ネギの種袋をもどかしく開けると、ザラザラと種を手のひらに出した。それは黒く、やはりゴマより少し大きいくらいで、三角錐のような形をしていた。朝顔の種のようでもあった。僕はそれを握りしめた。長い、長い旅路の終着点のように思えたし、何かの始まりのようにも思えた。

日はとうに沈み、目の前の海は暗く、静かに波音が僕の汚れをそそいでいる。人は、人には計り知れない何か大きな営みの中で、この種のようなか弱く弱々しい存在にしかすぎない。だが、それでも僕らは種なのだ。いつか芽を出し、青々と伸び、ネギ坊主を作り、そして美味しいネギになる! 僕は大きく手を回して、投げた!
 
 
 
うわああああああ!!
 
 
 
気づくと僕は笑っていた。これから先、僕の人生で何が起こるか分からないけど、いつか芽を出せると信じて。自分の力を信じて。歩んでいこう。この海に植えた、青ネギのように。そう僕は、たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日青ネギを植えるのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
……みたいなことをやったことがありまして、今思い返しても、本当にあの時はどうかしていた。今は真人間なので良かったです。みんな、本当にヤバイときは病院行けな。それでは。